量子コンピュータの話は、たいてい量子ビットが何個かで語られます。ところが数を比べる前に、そもそも何を量子ビットにしているかが会社ごとに違います。物理的に別のものを数えているので、個数だけを並べても比較になりません。
IonQが選んだのは、原子から電子を1個はがしたイオンを、電場で宙に浮かせて使う方式です。GoogleやIBMが採る超伝導回路とは、まったく別の物理です。
この記事は、同社が米国証券取引委員会に提出した年次報告書(10-K、2026年2月25日提出)に書かれている説明を読み解きます。宣伝資料ではなく、法的な責任を伴う書類です。ただし書いているのは会社自身なので、自社に有利な整理になっている部分は、そう書きます。
・イオンは電場で真空中に浮かせるので、周囲から切り離しやすい。情報が保つ時間が桁違いに長い
・配線でつながないため、どの量子ビットとも直接やり取りできる(超伝導は隣を経由する)
・代わりに1回の演算が遅い。レーザーと制御系、超高真空という重い装置も要る
・同じ書類の危険要因の欄には「当社はまだスケーラブルな量子コンピュータを製造できていない」と書いてある
イオンは「宙に浮いている」ので、壊れにくい

量子の情報は放っておくと壊れます。周囲の熱や電磁波に触れた瞬間に、重ね合わせがほどけてしまう。これをコヒーレンスが失われる、と言います。計算はそれまでに終わらせなければなりません。持ち時間が計算量の上限を決めています。
ここが方式によって桁違いに違います。10-Kにはこう書かれています。
| 方式 | 情報が保たれる時間(同社の記載) |
|---|---|
| 超伝導量子ビット | おおよそ10〜50マイクロ秒 |
| イオントラップ量子ビット | 約1時間(隔離技術が進めばさらに延びる可能性) |
マイクロ秒は100万分の1秒です。50マイクロ秒と1時間では、7桁以上の開きがあります。この差がどこから来るかというと、置かれている場所です。
超伝導方式の量子ビットは、チップの上に作り込まれた回路です。物として基板に固定されているので、周囲の材料と地続きになります。いっぽうイオンは、超高真空の中で電場だけに支えられて浮いています。触れているものが無い。同社の表現では、内部の量子状態は「完全に隔離されている」ことになります。
イオントラップのコヒーレンスが長いこと自体は、方式の性質としてよく知られています。争点になるのは「だから優れている」の部分で、持ち時間が長くても1回の演算が遅ければ、時間内にこなせる計算の量は変わらない。この点は後で出てきます。
配線が無いので、どの相手とも直接つながる
もうひとつの違いは、量子ビット同士のつなぎ方です。
10-Kによれば、固体方式では量子ビットが物理的な配線で結ばれています。そのため離れた相手と計算するには、あいだにいる量子ビットを経由するしかありません。電車の各駅停車のようなもので、経由するたびに誤差が乗ります。
イオンの場合、つないでいるのは配線ではなく静電気の反発です。同じ電荷を持つイオンが並んでいると、1個を揺らせば全体が揺れる。同社は自社システムについて「どの量子ビットも、同じ鎖の中の他のどの量子ビットとも直接やり取りできる」と書いています。
代わりに払っているもの
10-Kには、イオントラップ方式の課題も並んでいます。同社はこれを「参入障壁」=他社が真似しにくい理由として書いていますが、裏返せば自社も抱えている難所です。
| 課題 | 中身 |
|---|---|
| 制御系の安定 | イオンを操作する電子回路とレーザーを、極めて安定に保つ必要がある |
| 超高真空 | 従来は材料選定・組み立て・長時間の加熱処理が要り、時間と費用がかかる |
| 全結合での高精度 | すべての量子ビットが互いに演算できる制御方式を、実時間で組むのは難題 |
| 演算が遅い | 固体方式に比べて遅いと広く考えられている |
4つ目について、同社の書きぶりが正直で参考になります。遅さは「多くの現行システムではそのとおり」としたうえで、理論と実験からすると方式の限界とは限らないとし、括弧で「ただし商用利用ではまだ実証されていない」と付けています。研究室では速いゲートが実現している、とも書いています。
「研究室で実現した」と「商用機で動いている」は別です。この一文は、会社自身がその境目を明示している珍しい箇所で、判断に使えます。速度が解決済みだと読んではいけません。
他の方式は何を選んでいるのか
同じ書類の競合の項に、主要な方式が整理されています。ここは競合の弱点をIonQが書いている箇所なので、当然ながら自社に有利な整理です。そのつもりで読みます。
| 方式 | 主な企業 | 10-Kが挙げる弱点 |
|---|---|---|
| 超伝導回路 | Google、IBM、Rigetti | 絶対零度近くの冷却が要り、冷却技術の大規模化が難しい。誤り訂正の負担は1,000対1〜100,000対1 |
| 光(フォトン) | PsiQuantum、Xanadu | 光は止められないので保存が難しく、光子同士が相互作用しにくい。誤り訂正の負担は10,000対1以上 |
| イオントラップ | IonQ、Quantinuum、AQT | (同じ方式の競合として名前が挙がっている) |
「誤り訂正の負担」は、使い物になる量子ビット1個を作るのに物理的な量子ビットが何個要るか、という比です。1,000対1なら、実用1個のために1,000個を並べることになります。個数の競争が、そのまま実力の競争にならない理由がここにあります。
なお、超伝導方式には明確な強みもあり、10-Kもそれを認めています。シリコン半導体の微細加工技術をそのまま使える点です。量産の道筋が既存産業と地続きであることは、長期的に効く可能性があります。
同じ書類の別の場所に、こう書いてある
ここまでは事業の説明を読んできました。同じ10-Kの危険要因の欄には、次の一文があります。
矛盾ではありません。前半は「この方式にはこういう利点がある」、後半は「その利点を製品として成立させられるとは限らない」と言っています。どちらも同じ会社が同じ日に提出した書類に載っています。
数字を並べると、いま置かれている段階が見えます。直近の四半期報告(2026年8月10日提出)によれば、2026年1-6月の売上高は1億4,472万ドル、営業損益はマイナス6億875万ドル、研究開発費は2億8,637万ドル。6月末の現金及び現金同等物は12億3,570万ドルで、短期・長期の有価証券を足すと29億5,930万ドルあります(いずれもSECの機械可読データより)。
半年で、売上の4.2倍にあたる営業赤字を出しています。研究開発費だけで売上の約2.0倍。製品を売って回っている会社の形ではありません。ここは技術の話ではなく、技術に賭けている段階の会社だということです。
技術の説明は年次報告書(10-K・2026年2月25日提出)から取りました。事業の説明や競合の整理は年に一度しか更新されないためです。いっぽう金額は四半期報告書(2026年8月10日提出・2026年6月30日締め)の最新値を使っています。年次の数字(2025年12月期)はすでに半年以上前のもので、この業界では向きが変わります。
方式の違いが分かったうえで各社の現在地を見るなら、直近四半期を同じ形式で並べた量子4社の最新四半期があります。年次だけを見ると向きを間違える、という話も含めて書きました。
よくある疑問
Q. 結局、イオントラップと超伝導のどちらが優れているのですか
A. 現時点で決まっていません。イオンは情報が保つ時間と結合の自由度で有利、超伝導は演算の速さと量産技術で有利、という得意苦手の違いです。どちらが勝つかは、誤り訂正をどれだけ安く実現できるかで決まる公算が大きく、その答えはまだ出ていません。
Q. 10-Kは信用できる資料ですか
A. 虚偽記載に法的な責任が伴うので、事実の記載としては信頼度が高い部類です。ただし事業の説明の部分は自社に有利な組み立てになります。今回のように、事業の説明と危険要因の欄を突き合わせて読むと、会社が自分で認めている限界が見えます。
Q. 量子ビットの数はまったく見なくていいのですか
A. 見る価値はありますが、単独では意味を持ちません。同じ100個でも、方式が違えば誤り訂正の負担が10倍以上違います。数を見るなら、精度と結合の自由度、そして誤り訂正の比とセットで見ることになります。
数の話に戻る前に
- イオンは電場で真空に浮かせる。触れる物が無いので情報が保つ(同社記載で約1時間、超伝導は10〜50マイクロ秒)
- 配線ではなく静電気の反発でつながるため、どの相手とも直接演算できる
- 代償は演算の遅さとレーザー・超高真空という重い装置。速度は「商用ではまだ実証されていない」と同社が明記
- 誤り訂正の負担は方式ごとに桁で違う。だから個数の比較は成立しない
- 同じ書類に「まだスケーラブルな量子コンピュータを製造できていない」と書いてある
この記事の数字と引用は、IonQの2025年12月期 年次報告書(Form 10-K)と、2026年6月期の四半期報告書(Form 10-Q)から取りました。どちらも英語ですが、SECのサイトで誰でも無料で開けます。該当箇所は本文中に日本語で示したとおりです。
方式の違いが分かると、次に見る場所が変わります。個数の発表ではなく、精度がどこまで上がったか、そして誤り訂正の比がどこまで下がったか。ニュースの見出しはたいてい個数を伝えますが、その裏の2つが動かないかぎり、絵は変わりません。
見出しの数字の下を見る、という読み方は分野を問いません。Rocket Lab|打ち上げは増え、Neutronは遅れたでは、打ち上げ本数と売上が伸びている裏で、本命の機体が地上試験で止まっている状態を扱いました。発表される数字と、事業の進み方は、いつも同じ向きではありません。







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